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文化財

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県指定重要文化財

本尊阿弥陀如来坐像(定朝様式)

西方寺の本尊阿弥陀如来坐像は、今から約千年前の平安時代後期の作で、典型的な定朝(じょうちょう)様式の仏さまである。仏師定朝とは、平安中期の康尚という仏師の子で、法成寺造仏の功により仏師として初めて法橋(ほうきょう)(※)の位を得て後に法眼(ほうげん)(※)になられた方で、寄せ木造りを完成させて定朝様(じょうちょうよう)という流麗な和風の彫刻様式を確立し、後世のの手本となった仏師で、仏師定朝の作品としては、京都宇治の平等院の国宝阿弥陀如来像が有名である。

西方寺の本尊阿弥陀如来坐像は、螺髪(らほつ)は小粒のものを揃え、お顔も眉や頬のカーブなど定朝様の丸くやさしい様にならって、慈悲深く穏やかな表情をたたえている。納衣は柔らかく躰を包んで、肩から腹・膝へとかかり、衣紋のシャープで単純な線が洗練された美しさを見せていて、よく定朝様の穏やかな特徴をこなした作例として、形のまとまりに都風をしのばせている。蓮華座も古く、いかにも平安後期の特色を示している。

また、通称「西方寺の黒本尊」とも呼ばれる。西方寺が鎌倉にあったころは、金色に光り輝く仏さまであったが、あまりの輝きのために海の魚が恐れて水中深く潜り込み、一向に魚が捕れないようになった。たまりかねた漁師たちが阿弥陀像に一筆一筆経文を書きながら全身を墨で塗りつぶしてしまったという言い伝えが残っており、今でも本尊の下あごの部分には金箔の跡が残っている。

(※)法橋、法眼……..僧侶の位、法印・法眼・法橋の三つの位がある。

国指定重要文化財

注大般涅槃経(ちゅうたいほつねはんぎょう) 奈良時代

 奈良時代、聖武天皇の勅願によって、全国に国分寺や国分尼寺が建てられられました。多くのお寺が出来るとその分多くのお経が必要になり、写経司という役所が設けられ、写経生により多くのお経が書き写されました。いわゆる天平の写経と呼ばれるものでる。

「注大般涅槃経」は、仏陀の入滅に関する云い伝えをまとめたもので巻物で全巻三十巻から成っており、西方寺に伝わるものは、そのうちの第十九巻目で、巻物の長さは十二メートル、その正階で端麗な筆跡から奈良時代中期、今から約一千二百年前の写経生よって書写されたものと考えられている。

また、他に現存しているのは、三重の西来寺本(巻第二・十二)と京都の毘沙門堂本(巻第十四)、滋賀の西教寺本(巻第八)のみとされている。

横浜市指定有形文化財

本堂 江戸時代 享保六年(1721年)

 平成九年に横浜市指定有形文化財に指定される。その後、平成十六年~平成19年までに行われた「平成の大修理」により、解体修理が行われ、創建が江戸時代 享保六年(1721)ということが判明。屋根も創建当初の茅葺きに吹き替えられ、江戸時代の創建当時の姿が復元されました。

西方寺の本堂は、内陣を含め、正面八間、側面六間、寄棟造、外回りの雨戸は舞良戸(まいらど)、内陣は四方桝組(ますぐ)み、折り上げ格天井(ごうてんじょう)で、各々の格(ごう)には、春夏秋冬の四季にわたる草花の絵が描かれ、内陣と外陣の境の欄間には正面に龍、左右には飛天の彫刻があり、全体として優美で格調高い本堂であります。
また、内陣来迎柱には葵の紋があり、徳川幕府との関係の深さを表しています。

本堂外陣杉戸八枚十六面 四季花鳥図(狩野派)
本堂内陣杉戸十二枚 雲中供養仏画 (狩野派)
江戸享保時代 

外陣にある前室の南北にはめられた杉の板戸八枚の表裏十六面に絵画(杉戸絵)が描かれている。

満開の桜の木を主景とする春景、柳の木にツバメを飛ばす夏景、紅葉する楓に小菊・薄(すすき)・萩・雁を描く秋景、松の木を主景に万年青(まんねんせい・オモト)や熊笹を添えた冬景が表され、当初より四季を画題として統一的に制作された「四季花鳥図」であり、桃山障壁画様式を受け継いだものである。

内陣にある左右の板戸には蓮池の上に笛や太鼓を鳴らしながら天空を舞っている天女が描かれており、これは飛天といって、天女が天衣を翻(ひるがえ)し軽やかに舞い、仏さまが説法されているのを空から賛嘆している様子を描いている。

内陣は仏の世界を外陣は我々のいるこの世の世界を表現しています。

両方とも描法上の特徴により本堂の建立年代とほぼ同時期に制作されたものと考えられる。

鐘楼(茅葺き)江戸時代(1708年)

 新編武蔵風土記稿には「鐘楼ハ観音堂ノ前ニアリ」と記述され、梵鐘の鋳造銘から見て宝永五年(1708)に二十五世祐算法印による建立と思われる。

当時の梵鐘は戦争中に供出してしまい、現在の梵鐘は先代道海和上により昭和五十年(1975)に再鋳したもの。

鐘楼は本堂より少し前の創建になりますが、簡素ながら趣のある建物である。

山門(茅葺き)江戸時代(弘化時代)

山門は、四脚門で、江戸弘化年代(1844~1847)、今から約百六十年前に創建され「新編武蔵風土記稿」編纂時には存在せず記述されていません。こちらも茅葺きである。

観音堂 十一面観音菩薩像(平安後期作)

旧小机領三十三観音霊場第15番札所の観音様。

約500年前(室町時代頃)に現在の新羽の地に移転される前からもともとこの地には観音院といわれる観音堂があったとされています。
この観音堂にお祀りされていたのがこちらの十一面観音像です。
2010年から橫浜市教育委員会による調査が行われ、平安時代の仏様であることが判明しましたが老朽化でかなり痛んでいることから修復を要するとのことでした。
そのような状況の中2011年の東日本大震災で被災し自立不可能となっていました。
しばらく途方にくれておりましたが2016年に朝日新聞文化財団からの助成を受けることが出来、その年の4月から今年3月まで一年をかけて修復されました。
2017年11月に橫浜市文化財に指定されました。